これは、Paul Graham: Early Work を、原著者の許可を得て翻訳・公開するものです。
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Copyright 2020 by Paul Graham
原文: http://www.paulgraham.com/early.html
日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)
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Paul Graham氏のエッセイをまとめた『ハッカーと画家』の
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2020/10/20 翻訳公開
人がすごい成果を出せない最大の理由のひとつは、ださいものを作ってしまうことへの恐れだ。 この恐れは非理性的なものではない。 多くのすごいプロジェクトは、初期の頃に、作り手の目から見ても大したことがないという 段階を経験している。そこをどうにかして突破しないと、 その先にあるすごい成果へとたどり着けない。 でも多くの人々はそこを突破できない。それどころか、 自分で恥ずかしいと思うようなものでも作ってみる、という段階にさえ到達できないのだから、 それを越えることなど思いもよらない。怖くて始めることさえできないんだ。
ださいものを作ってしまう恐れを消すことができたらどうなるだろう。 どれだけすごいものがたくさん作られるだろう。
恐れを消すことなんて出来るんだろうか。私は出来ると思う。 原因となっている習慣は、それほど深く根付いたものではないからだ。
新しいものを作るということ自体、種としての人類にとって、新しい経験だ。 もちろん新しい物はずっと作られてはきたけれど、過去数世紀より前には、 それはあまりにゆっくり起こっていたので、個人の目には見えなかった。 そして、新しい考えに取り組むことを習慣化する必要が無かったから、 そういった習慣が作られてこなかった。
つまり、野心的なプロジェクトの初期のバージョンに触れる経験が充分になかったから、 それにどう応えて良いものやらわからないんだ。だから、それを最終的な成果のように 判断してしまったり、大したものでないと決めつけてしまったりする。 特別な扱いが要ることに気づかないんだ。
少なくとも、大多数の人はそうだ。 私が、我々はもっとうまくやれるだろうと自信を持って言えるのは、 それが既に始まっているからだ。この点に関して未来を走っている場所が 既にいつくかある。シリコンバレーはそのひとつだ。 無名の誰かが、 へんてこりんなアイディアに取り組んでいたとして、 彼らの出身地では自動的に下らないと切り捨てられていたかもしれないが、 ここではそうはならない。 シリコンバレーでは、そういうアイディアを切り捨ててしまうことの危険性が知られている。
新しいアイディアを受け止める正しい方法は、それを自分の想像力に対する挑戦と 考えてみることだ。単にハードルを下げるんじゃなくて、 極性を完全に反転してみる。 つまり、そのアイディアがうまくいかない理由を挙げてゆくんじゃなく、 うまくいく理由を挙げるようにする。 これが、新しいアイディアを持っている人と会った時に私がやることだ。 Y Combinatorのパートナーでいるということは、 無名の人によるへんてこりんなアイディアの群れにどっぷり浸かるということだ。 6ヶ月ごとに、何千ものアイディアが押し寄せてきて、それに目を通さないとならない。 そして成果が冪乗則に乗る世界に生きていれば、 きっと干し草の山から針を見逃してしまうであろうことは明らかだ。 何としてでも楽観的でいなければならない。
でも、時が経てば、この種の楽観性は少数のスペシャリストが使うトリックではなく、 社会慣習といえるほどに広まってゆくだろうと期待している。 何といってもとても儲かるトリックだし、そういうものは急速に広まりがちだ。
もちろん、経験の少なさだけが、野心的なプロジェクトの初期バージョンを厳しく見すぎることの 理由ではない。そうすることが賢く見えるからでもある。 スタートアップのように新しいアイディアの失敗の危険性が高いところでは、 それを切り捨ててしまうことの方が正しいことが多いだろう。 ただし 結果で重みづけしたら 話は別になる。
でも、人が新しいアイディアを切り捨てるのには、もうちょっと後ろ暗い理由もある。 何か野心的なプロジェクトに取り組んでいる人を見ると、まわりの人は意識的にせよ無意識にせよ、 失敗することを期待してしまうんだ。だってもし野心的なものに取り組んで成功しちゃったら、 その人は自分たちより上に行くことになるからね。 国によっては、これが個人の資質というよりその国の文化の一部になっていると言えるところもある。
シリコンバレーがこの衝動を乗り越えられたのは、モラルが優れていたからだ、なんて言うつもりはないよ[1]。 多くの人が野心的なアイディアを持つ人を応援するのは、一緒に登っていけるからだ。 投資家にとってはこのインセンティブは特に明白だ。 あなたが成功してくれれば、その過程で彼らも儲かる。 でもそれ以外の人も、あなたの成功によって、何らかの形で恩恵を受ける。 少なくとも、あなたが有名になった後で、昔から知っていたと自慢できるわけだしね。
シリコンバレーの、成功に期待する空気が利己的なものから来ているのだとしても、 時を経た今では、それが一種の善意といったものに育っている。 スタートアップを励ますことは充分長く行われてきたので、慣習になっているのだ。 スタートアップを見たら励ます、というのが自然なことに思える。
シリコンバレーは楽観的にすぎるのかもしれない。 だから出来るふりをする人に簡単に騙されてしまうのかもしれない。 と、そう楽観的でないジャーナリストは信じたがる。 でも、そういうジャーナリストが挙げる、騙した人のリストは、あっけないほど短いし、 たくさん注釈がついている[2]。 収益をテストと考えれば、シリコンバレーの楽観性は、世界の他の場所よりも磨かれているだろう。 そしてそれはうまくいく。だからきっと広がってゆく。
もちろん新しいアイディアというのはスタートアップのアイディアだけではない。 どんな分野でも、ださいものを作ってしまう恐れは人々をためらわせる。 シリコンバレーでわかることは、新しいアイディアを応援する慣習がどれだけ早く進化し得るか ということだ。そしてそのことから、新しいアイディアを却下してしまう癖は、 それを捨てることができないほど人間の性質に深く根付いたものでない、とわかる。
残念ながら、新しいことを始めようとした時に直面する抵抗には、 他人の懐疑よりもっと強力なものがある。自分自身の懐疑だ。 自分の初期の作品を、自分は必要以上に厳しく判断しがちだ。 どうすればそれを避けられるだろう。
難しい問題だ。ださいものを作ってしまう恐れを完全に消し去ってしまいたくはないからね。 その恐れがあるからこそ、良いものを作ろうとするわけだし。 ただ、一時的にそのスイッチを切りたいんだ。 痛み止めが一時的に痛みを抑えるみたいに。
いくつかのうまくゆくテクニックが発見されている。 ハーディーは『ある数学者の生涯と弁明』で二つ挙げている。
「謙虚な」人が良い仕事をするわけではない。 例えば教授がやるべき最初のことは、どんなテーマであれ、 そのテーマの重要性と、そのテーマの中での自分の重要性を、ちょっとだけ誇張することだ。自分がやっていることの重要性を過大評価すれば、 それは初期の結果に対する不要に厳しい評価を補正してくれるだろう。 たとえば100のゴールに対して20%出来たのを見て、 200のゴールに対して10%しか出来てない、と思ってしまったとすれば、 後者では二つとも数字が間違っているけれど、期待される結果としては合っているわけだ。
また、ハーディが言うように、少しだけ自信過剰になることも役に立つ。 多くの分野で、最も成功している人は、少しだけ自信過剰であることに私は気づいた。 表面的にはこれはおかしいと思えるかもいれない。 自分の能力について正しく評価できるのが最適なはずだろう。 そこを見誤ることがどうしたら有利に働くんだ? それは、この誤りが、逆方向の誤りの原因を補正してくれるからだ。 少しだけ自信過剰であることは、他人や自分の懐疑からの守りになるんだ。
無知にも似たような効果がある。最終成果物の評価がゆるければ、 初期の成果を最終成果物と勘違いしても問題は少ない。 こういう無知を積極的に作り出せるかどうかは疑問だが、 実践的には無知でいることは本物の強みとなる。特に若者にとっては。
野心的なプロジェクトのださい段階を通り抜けるもうひとつの方法は、 自分の周囲を正しい人で固めることだ。社会の向かい風に対抗する流れを作っておくんだ。 でもただ自分を励ましてくれる人を集めるだけじゃだめだよ。 そういう励ましを割り引いて聞くようになるだけだからね。 醜いアヒルの子は醜いとはっきり言ってくれる同僚が必要だ。 いちばんいいのは、似たようなプロジェクトをやっている仲間だ。 これは大学の学部や研究室がうまくゆく理由でもある。 必要な同僚をわざわざ集めなくても、運が良ければ自然に集まってきてくれるからね。 でも、新しいことをやろうとしている人を積極的に探し出すことで、 このプロセスを加速する価値はある。
教師は実質的に、同僚の特別な場合だ。 初期の作品に光るところを見つけ、続けるように励ますことは、教師の仕事だ。 だが残念ながら、それがうまい教師は滅多にいない。 だからそういう教師から学ぶ機会があったら逃さないことだ[3]。
人によっては、純然たる規律で何とかなるかもしれない。 初期の下手くそな段階をとにかく乗り越えるしかない、諦めるな、と自分に言い聞かせるんだ。 でも「自分に言い聞かせろ」というアドバイスの多くは、言うほど簡単ではない。 そして年を取るにつれどんどん難しくなってゆく。基準が上がってゆくからね。 もっとも、年を取って有利になることもひとつある。前に乗り越えたことがある、という経験だ。
自分のレベルよりも、変化率の方を見ることは役に立つかもしれない。 上手くなっていると感じられれば、今の作品が下手でもそれほど気にならない。 当然、向上が速ければ速いほど、これは簡単になる。 だから新しいことを始めた時には、集中してなるべくそれに時間を費やすのがいい。 若さはここでも有利に働く。まとまった時間を取りやすいからね。
もう一つのよくあるトリックは、新しい作品を、あまり厳密さを要求しない別の種類の仕事と 考えることだ。絵を描き始める時にこれはただのスケッチだ、と考えるとか、 新しいソフトウェアを書き始める時にこれはクイックハックだ、と考えるとか。 そうしたら、初期の作品を低めの基準で判断することになる。 プロジェクトがまわり出したら、それをこっそり、より高い基準に置き換えるんだ[4]。
これは、素早く作れて、作る前にあまり覚悟を必要としない媒体でやる方が容易だ。 石を彫り始めるより、ノートに描き始める方が、これが絵でなくスケッチだと思うのは簡単だろう。 また、そういう媒体の方が早く結果が得られる[5] [6]。
失敗の危険の高いプロジェクトを、何かを作るのではなく、学ぶ機会だと考えてみることも、 手をつけるのを容易にする。 それなら、プロジェクトが完全に失敗したとしても、何かしら学びを得られるわけだから[7]。
私にとってとてもうまくゆく動機は、好奇心だ。 これをやったらどうなるだろう、という好奇心から新しいことを始めるのが好きなんだ。 Y Combinatorだってそういう気持ちで始めたし、 Belに取り組んでいる時に 自分を動かしていたのもそれだった。 様々なLisp方言を使ってきて、いったいLispの根源的な形はどうあるべきか、 公理的アプローチを極限まで推し進めたら何が得られるのか、それを知りたかったんだ。
でも、初期の作品のだささに心が折れてしまうことを避けるために、 自分を誤魔化すトリックが要る、というのは、ちょっと奇妙ではある。 誤魔化して自分に信じさせようとしていることは、実際は真実であるからだ。 野心的なプロジェクトの、初期のださく見える作品は、 その見た目以上に真に価値があるものだからだ。 ならば、究極の解決策は、そういうものだと自分に教えることだろう。
偉大な作品を作った先人の歴史を学んでみることは役に立つ。 駆け出しの頃、彼らは何を考えていただろう。 一番最初に何をやっただろう。 この問いの答を見つけるのは難しいことが多い。 人は自分の初期の作品を恥ずかしく思って、あまり公表したがらないからだ。 (彼らでさえ、判断を誤ったのだ)。 でも、誰かの偉大な作品へと続く道の最初の段階をはっきり見ることができたら、 それはびっくりするほど弱々しいことがある[8]。
そういう事例をたくさん学んでいれば、自分の初期の作品についてもより良い判断が下せるかもしれない。 そうしたら、ださい作品を作ってしまうことへの他人の懐疑と自分の恐れに免疫ができるかもしれない。 初期の作品を、初期の作品として判断できるようになるんだ。
おもしろいことに、初期の作品を厳しく見すぎる問題の解決法は、 そういう見方そのものが初期の段階であると気づくことだ。 全てに同じ基準を適用する、というのは、不格好なバージョン1にすぎない。 我々は既にそれより良い慣習を進化させつつあるし、その効果がどれだけ大きいかを知りつつある。
註
[1] この想定は保守的にすぎるかもしれない。 歴史的に、ベイエリアは例えばニューヨーク市などに比べ 違う種類の人々を 惹きつけてきたという証拠がある。
[2] ジャーナリストが好んで出す例がセラノスだ。 でもセラノスの資本政策表を見て一番目につくのは、シリコンバレーの投資ファームが見当たらないことだ。 セラノスに騙されたのはジャーナリストであって、シリコンバレーの投資家ではなかった。
[3] 私は若い時に、教師について2つの間違いをした。 まず、教授の、教師としての評判より研究の方を気にしていたこと。 そして、良い教師であるとはどういうことをかを勘違いしていたこと。 説明するのが上手いことだと思ってたんだ。
[4] パトリック・コリソンは、何かをプロトタイプという意味でハックであると扱うことを さらに進めて、それをプラクティカルジョークに近い意味でのハックであると扱うことが 出来るだろうと指摘した。
「ハックである」ということにはもっと強い意味があるんじゃないか。 根拠薄弱な、ありそうもないことがむしろ特徴であると考えるんだ。 「だよなあ、馬鹿げて聞こえるだろ? このナイーブなやり方でどこまでいけるか見てみたいんだ」 Y Combinatorも、この特徴を持っているように僕には見える。[5] 物理メディアからデジタルメディアへと切り替わったことの利点のほとんどは、 ソフトウェアであること自体よりも、 新しいことを始めるのに大げさな覚悟がいらなくなったことだ。
[6] ジョン・カーマックのコメント:
初期の作品と最終的な作品との間に巨大なギャップがない媒体の価値は、 ゲームのmodに見ることができる。オリジナルのQuakeはmodの黄金期だった。 全てがフレキシブルで、でも技術的な制約から全てが原始的だったから、 新しいゲームプレイのアイディアを簡単なハックで試してみることは オフィシャルのゲームに比べてそれほど見劣りするものではなかった。 そこからキャリアを作っていた人がたくさんいる。 でも商用ゲームのクオリティはどんどん良くなって、コミュニティで受ける、 成功するmodを作るには、フルタイムで製作に関わらないとならなくなった。 この傾向を劇的に巻き戻したのはマインクラフトとロブロックスで、 ゲーム体験の美学がわざと原始的に設計されているため、 ゲームプレイの新しいアイディアはどれも新たな価値に見えたんだ。 この、個人によって作られていた「原始的」なゲームmodは、 今ではプロによる巨大なチームで作られるものになってしまった。[7] リサ・ランドールのコメント
[私たちは]新しいことを実験と考える。そうしたら失敗というのはない。 結果がどうなろうと何かしら学べるからだ。 その実験によって何かが絶対にうまくいかないとわかったなら、 その方法を諦めて別のやり方に進めば良いし、 何か変えて良くする余地が見えたなら、そうしてみればいい。[8] マイケル・ネルソンは、インターネットがこれを容易にしたと指摘する。 プログラマの最初のコミットや、ミュージシャンの最初のビデオを見ることができるからだ。
草稿に目を通してくれた、 トレバー・ブラックウェル、ジョン・カーマック、パトリック・コリソン、 ジェシカ・リヴィングストン、マイケル・ニールセン、リサ・ランドールに感謝。