これは、Paul Graham:What You Can't Say を、原著者の許可を得て翻訳・公開するものです。
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Copyright 2004 by Paul Graham
原文: http://www.paulgraham.com/say.html
日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)
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Paul Graham氏のエッセイをまとめた『ハッカーと画家』の
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2004/1/05 翻訳公開
2004/1/10 原文の変更に追従(主としてリンクの追加)
2004/4/11 武井伸光さんからの誤記の訂正を反映
(これは、異端に関するエッセイである。いかにして禁じられたアイディアを考え、 それによって何をするか。後者は、近年まではごく少数のエリートが考えれば 良いことだった。しかし現在、誰もが考えなければならないことになった。 Webによって誰もが意見を公表できるようになったからだ。)
昔の自分の写真を見て、その外見に恥ずかしさを覚えたことがないだろうか。 ほんとにこんな服を着てたんだっけ? そう、着てたんだ。 そして、どんなに滑稽に見えるか、その時は思いもしなかった。 流行は本質的に、見えなくなるものだ。ちょうど地球の動きが、 その上に載っている我々にとって見えないものであるように。
だが、道徳にも流行があることを思うと、ちょっと恐ろしくなる。 道徳の流行も同じように何でもありで、しかも大抵の人には見えない。 だがそれは服装の流行よりずっと危険だ。流行の服装は 良いデザインと誤解されるが、流行の道徳は善と誤解される。 変な格好をしていても笑われるだけだが、 道徳の流行に逆らうと、馘になったり、村八分になったり、投獄されたり、 殺されることさえある。
あなたがタイムマシンで過去に時間旅行に行くことになったら、 どこへ行くかにかかわらず、常に正しいアドバイスがある。 口にすることに気をつけろ。我々が無害だと思っている意見でも、 たいへんな騒動に巻き込まれる可能性がある。 私は既に、17世紀のヨーロッパにいたなら大きな災難に遭っていただろう発言を 少なくとも一つしている。実際、それを口にしたせいでガリレイは大変な目に あったんだ。つまり、地球は動く、とね [1]。
ナードはいつでも トラブルに巻き込まれる。彼らが不適切な発言をするのは、 彼らが流行外れの服装をして、良いアイディアを持っていることと 同じ理由による。常識にあまりとらわれないからだ。
これは、歴史のどの時点でも変わらないことに思える。 どの時代においても、ほんとにばかげた考えが信じられていることがある。 しかも、反対の考えを言おうものなら厄介事に巻き込まれかねないほど 強く人々に信じられてたりするんだ。
現代は違うのだろうか? 多少でも歴史をかじったことのある人なら、 まずまちがいなく、現代も変わらないと答えるだろう。 もし現代が、史上初めて、全てが正しく行われている時代であるとしたら、 すばらしい偶然ではないか。
将来の人々がばかげたことだと思うことを我々が信じているかもしれない、 と思うと、何やらむずむずするものがある。もし誰かが、未来からタイムマシンに乗って 現代にやってきたとして、彼が口にしないように気をつけなければならないことって 何だろうか。これが、私がここで考えようとしているトピックだ。 でも、ただ現代の異端を見せてみんなをびっくりさせようってだけじゃない。 どんな時代においても使える、口にできないことを見つける一般的な方法を 探してみるんだ。
まず、このテストからはじめよう。 あなたは、自分と同格の人が集まっているグループ内で、 表明するのを憚るような意見を持っているだろうか。
この答えがNoならば、ちょっと止まって考えてみてほしい。 あなたが信じていることがすべて、あなたが信じるべきとされていることだとしたら、 それは偶然だろうか。確率的には、そうじゃない可能性の方が高い。 あなたが言われたことを何であれそのまま信じている、というほうがありそうだ。
可能性としては、あなたはそれぞれの疑問に対して自分なりに独立して 答えを考えたのだけれど、それがたまたま、現代において良いとされているものと 一致した、ということも考えられる。でもこれはあまり有りそうにない。 一致するためには、同じ間違いをしなくちゃならないからだ。 地図会社はわざと小さな間違いを製品に入れておいて、誰かがコピーしたらそれと わかるようにしている。もし他の地図が同じ間違いを含んでいたら、 それはコピーしたという有力な証拠だ。
歴史上の全ての他の時代と同じように、現代の道徳も、いくつかの誤りを 含んでいることはまず間違いない。そして、誰かが同じ間違いをしたとしたら、 おそらくそれは偶然じゃない。それを偶然だと主張するのは、まるで 1972年に流行とは全く独立してベルボトムのジーンズはかっこいいと決めた、 と主張するようなものだ。
あなたが現代において、信じるべきとされていることを信じているのだとしたら、 もしあなたが南北戦争前の南部の農園主の家や、 1930年代のドイツや、あるいは1200年のモンゴルで育ったとしても、 その時代に信じるべきとされていたことをやっぱりそのまま信じていた、 という可能性を否定できない。いや、今と同様だった可能性の方がずっと高いだろう。
「良く順応している」というような言葉が使われた時代には、 口憚るような考えを抱くというだけで、どこかおかしいと思われていただろう。 だが、本来は逆ではないか。口憚るような考えを抱かない、というほうが、 まずまちがいなく、どこかおかしいと言えるんじゃないか。
口憚られる考えには、どんなものがあるだろうか。 そのようなアイディアを見つける ひとつの方法は、他の人がそれを口にしたがために災難に巻き込まれたような ものごとに注目することだ[2]。
もちろん、我々がやろうとしているのは、ただ口にできないことを探すというのではない。 真実であるか、あるいは少なくとも、真実である可能性が十分にあり、 問題を公にしておいた方が良いにもかかわらず、口にできないということを探しているんだ。 もっとも、口にしたがために騒ぎに巻き込まれるようなことの多くは、 おそらく後者の条件もクリアするだろうと思われる。 2 + 2は5だとか、ピッツバーグの住人は身長が3mあるとか主張したって、 災難に巻き込まれるようなことはない。そういったあからさまに間違っている 主張は、ジョークとしてとられるか、悪ければ狂気のしるしと思われるかもしれないが、 誰かがそれを聞いてかんかんになるってことはあまりありそうにない。 人が、それを聞いて怒り出すような主張とは、その主張が信じられると 困るとその人が考えているものだ。おそらく、最も人の怒りを買う主張は、 真実であるかもしれないと恐れられている主張だろう。
ガリレイが、パドゥアの人々は身長が3mあると言っていれば、 害のない奇人だと思われていただろう。 だが、地球が太陽の周りを回っていると言うことは別問題だ。 それによって人々がものを考え始めるようになることを、教会は知っていた。
過去を振り返ってみれば、このおおざっぱなルールは確かにうまく使えるようだ。 それを言ったことによって災難に巻き込まれたような意見の多くは、 現在では害のないものだ。だから、未来からの旅行者は、こんにち 人々が災難に巻き込まれているような意見のすくなくともいくつかは、 同じように無害なものだと考えるだろう。現代にガリレイはいないのだろうか? そんなことはあるまい。
そういったケースを探すには、人々が災難に巻き込まれるような主張に 常に注目して、「その主張は真実であり得るだろうか」と問うてみることだ。 そういう主張は「異端」(あるいは現代でそれに相当するもの)ではあるだろうが、 同時にそれが真実である可能性はないだろうか。
ただ、この方法では全ての答えは求まらない。 もし、あるアイディアについて、誰も災難に巻き込まれたことが無かったとしたら? もし、あるアイディアが、あまりに強烈に物議を醸しそうなために、 誰もそれを敢えて公に言い出せないでいるとしたら? どうやってそういう考えを見つけたら良いだろう?
もう一つのアプローチは、「異端」という言葉を追うことだ。 歴史のどの時代でも、真偽の議論に登る前に主張を撃ち落とすために使われる レッテルがあった。西洋の歴史の大きな部分で、「不敬」、「冒涜」、「異端」 といった言葉が使われてきたし、少し前は「不作法」「不道徳」「アメリカ的でない」 といった言葉がそうであった。しかし、そういったレッテルは既に効き目を 失った。レッテルというものは常にそうだ。今では、こういった言葉は普通は 皮肉としてしか使われない。だが一時期は、これらの言葉は本物の力を持って いたんだ。
例えば「敗北主義者」という言葉は、現代では特に政治色を帯びてはいない。 しかし1917年のドイツにおいては、この言葉は武器であった。 ルーデンドルフはこの言葉を使って、和平案を支持する人々を一掃したのだ。 第二次世界大戦のはじまりにおいては、この言葉はチャーチルと支持者達によって、 反対者を黙らせるために使われた。1940年には、チャーチルの攻撃的な政策に 反対するいかなる主張も「敗北主義」とされた。 それが正しいことか間違ったことか、そう問うところまでは誰もやらなかった。
もちろん、現代にもそういうレッテルはある。しかもたくさん。 あきれるほど何にでも使える「不適切な」という言葉をはじめ、多くは左派から 出てくるが、最近のものは右派から来た。 「対立主義的」だ。 この言葉は現在の政権によって、どんな話題に対しても相手を黙らせるのに 使われている。
どんな時代でも、そういったレッテルを見つけるのは難しくない。 同意出来ない意見に対して、「それは正しくない」というかわりに 人々がどういう言葉を使うかを見れば良い。 政治家が、相手に対して「間違っている」というなら、それは率直な批判だ。 しかし政治家がある主張を、その真偽ではなく 「対立主義的」だとか「差別に対して配慮を欠いている」だとか言って攻撃しているとすれば、 注意を払った方がいい。
このように、我々のタブーのうちどれが将来の世代から見て笑われるものであるかを 知るもうひとつの方法は、レッテルから始めることだ。 ひとつレッテルを選んでみる(例えば、「性差別主義者」とかね)、 そして、そのように呼ばれるアイディアをいくつか考えてみる。 そして、アイディアのそれぞれについて、それが真実かもしれないかどうかを問うてみるんだ。
そういうアイディアをランダムに書き出していいのかって? そうだ。というのは、実はそれはランダムではないからだ。 最初に意識に登って来るアイディアが、一番ありそうなアイディアだからだ。 そういうものは、あなたが既に気づいているにもかかわらず、 考えることを止めてしまっているものだからだ。
1989年に、ある賢い研究者達が、放射線科医師が胸のレントゲンから肺癌の兆候を 探す時の眼の動きを調べた[3]。 すると、医師が癌性の病変を見逃した時でさえ、 医師の眼はその箇所に少しの間留まっていることがわかった。 つまり、医師も頭のどこかでは、そこに何かがあるということを認識している。 ただそれが、意識的な知識の部分まで届かないだけなのだ。 多くのおもしろい異端的な考えは、我々の意識の中にほどんど形になるところまで できているんじゃないかと私は思う。だから、自己検閲機能を一時的に切ってみれば、 そういったものが最初に浮かびあがってくるんだ。
未来を見ることができれば、我々のタブーのどれが笑われるようになるかは すぐにわかるだろう。それはできない相談だが、似たようなことならできる。 過去を見るんだ。我々が間違えていることを知るもうひとつの方法は、 かつて受け入れられていたのに今では考えもできないことを探すことだ。
過去から現在への変化のいくつかは、進歩によるものだろう。 物理学のような領域では、過去の世代と矛盾する結果が出てきたら、 それは我々が正しくて過去が間違っているということだ。 でも、きっちりした科学の確実性から離れるにしたがって、 そうはっきりと言えることは急速に少なくなる。 社会的な問題にまで来れば、多くの変化は単なる流行だ。 広く受け入れられるアイディアの変化は、スカート丈と変動と似たり寄ったりだ。
現代に生きる我々の方が、過去の世代よりずっと賢くて高徳だと思いたい かもしれないが、歴史を学べば学ぶほど、そうは思えなくなってくる。 過去に生きた人々は我々とよく似ていた。英雄でもなく、野蛮人でもなく。 彼らが何を考えていたにせよ、それは人々が信じるに足る考えであったろう。
ここにもうひとつ、おもしろい異端を見つける源がある。 現在のアイディアと様々な過去の文化におけるアイディアとのdiffを取って 結果を見てみるんだ[4]。 現在の基準からするとびっくりするようなものがきっといくつかあるだろう。 それはそうだ。ところで、その場合、どちらが正しいと言えるだろうか。
大きな違いを見つけるのに、必ずしも過去をのぞき見る必要はない。 自分の時代においても、異なる社会は、何がよくて何がだめかについて 極めて異なった考えを持っている。だから、自分の文化のアイディアと 他の文化のそれとのdiffを取ってみても良いだろう。 (それをする最良の方法は、そういう文化を訪ねてみることだ)。
矛盾するタブーが見つかるだろう。ある文化ではXを考えることは 衝撃的だが、別の文化ではそれを考えないことが衝撃的とされるかもしれない。 でも、多くの場合、衝撃は一方の側にあるんじゃないかと私は思う。 ある文化ではXは良くて、別の文化ではそれはとんでもないこととされる。 私の仮説は、それをとんでもないこととする側の方が、何か間違いをしてるんじゃないか ってことだ[5]。
タブー以上のタブーというのは、おそらくほとんど普遍的にタブーとされている ことだけだと思う。例えば殺人だ。だが、大部分の時間と場所で無害とされて いた考えが今ここでタブーとされているなら、それは我々がどこかで間違えている ことの有力な候補になる。
例えば、「政治的に正しい」言葉遣いの波が最高潮に達した1990年代始めの頃、 ハーバードでは教授と職員に対してパンフレットが配られた。その中には、 他の諸注意に混じって、同僚や学生の服装を褒めることは不適切であると書かれていた。 もう「かっこいいシャツだね」って言っちゃいけないんだってさ。 こんな規則は、おそらく過去でも現在でも、世界の様々な文化の中で、非常に珍しいもの だろうと思う。人の服装を褒めることは逆に礼儀正しいことと 考えられている文化の方が多いだろう。 したがって、これは、未来からの旅行者が時間旅行先を 1992年のマサチューセッツ州ケンブリッジに定めた場合に、避けるべき タブーのひとつの穏やかな例となる可能性が高い。
もちろん、未来にタイムマシンがあるのなら、 多分ケンブリッジに関するリファレンスマニュアルが別に用意されていることだろう。 ケンブリッジはいつでも口うるさく、細かなことに口を出す人がいる街であり、 あなたは常に会話の中で考えと一緒に文法も直されるのを覚悟しなくちゃならないような 場所だから。 ここにもう一つ、タブーを発見する方法があるかもしれない。 堅苦しく、上品ぶった人を探して、その頭の中をのぞいてみるんだ。
子供の頭の中には、ある意味、我々のタブーの全てが保存されている。 我々は、子供の考えは輝かしく美しくあるべき、と思いたがる。 我々が子供に見せる世界の姿は、発達中の心に合わせて単純にしてあるだけでなく、 きちんと消毒されている。子供はこう考えるべき、という大人の考えに合わせるために [6]。
汚い言葉の扱いに、その縮図を見ることができる。 私の友人の多くはそろそろ子供を育てはじめたが、みんな赤ん坊が 聞いているところでは「fuck」とか「shit」なんて言葉は使わないように している。そうしないと赤ん坊がそういう言葉を使いはじめてしまうかのように。 でも、こういう単語は言語の一部であって、大人はいつでも使っているじゃないか。 ということは、大人は自分達の子供に対して、それらの単語を使わないことで 言語に関する不正確な考えを伝えていることになる。 どうしてそんなことをするんだろう? 子供は言語全てを使うべきではない、と大人が考えているからだ。 子供には無垢でいてほしいのだ [7]。
大抵の大人は、同じ理由から、わざと世界に関して誤解を生みやすい見方を 子供に与える。最も明白な例のひとつはサンタクロースだ。 そりゃ、小さな子がサンタクロースを信じているのは可愛いものだ。 私自身も、小さな子がサンタクロースを信じているのを可愛いと思う。 ただ、こういう疑問は残る。大人は、子供自身のためにそういうことを言っている んだろうか、それとも大人自身のために?
ここでは、この考えに賛成だとか反対だとかいう議論をしているわけではない。 親というものは、子供の世界を可愛い赤ちゃん向けグッズで飾りたてずにはおれない ものなんだろう。私だって自分の子にはそうするかもしれない。 ここでの目的にとって重要なことは、結果として、良く育てられたティーンエージの 子供の頭の中には、我々にとってのタブーのほぼ完璧なコレクションが作られることに なる、ということだ。しかも、経験によって汚されてはいない、真新しい状態で。 将来、ばかげたことだと分かるアイディアは何であれ、既にその頭の中に入っているはずだ。
ここからどうやって、口にできないアイディアを取り出すかって? 次の思考実験を使うんだ。後年のコンラッドの小説に出てくるような 人物を想定する。彼はある時はアフリカで傭兵となり、ある時はネパールで医師となり、 そしてまたある時はマイアミのナイトクラブで支配人をやったとしよう。 いや、細かいことは何でも良いのだが、とにかく彼は実に色々なことを見聞きしてきた。 この男の頭の中身と、郊外で行儀良く育てられた16才の女の子の頭の中身を比較 してみたらどうだろう。彼が考えることのうち、女の子に衝撃を与えるような ことは一体何だろう。彼は世界を知っている。そして女の子は、 我々のタブーを知って、いや少なくとも内包している。 一方からもう一方を引き算すれば、その結果が、我々が口にできないことだ。
口にできないことを見出す方法を、もう一つ考えることができる。 タブーがどうやって作られるかを見ることだ。 道徳の流行はどのように生まれ、社会に根付くのだろう。 この機構を理解できれば、それが今の時代に動いていることを見て取ることが できるかもしれない。
道徳の流行は、普通の流行と同じようには作られない。 普通の流行は、誰か影響力のある人の気まぐれな思い付きを みんなが真似することで、偶然起こるように思える。 15世紀後半にヨーロッパでつま先の大きな靴が流行ったのは、 フランスのシャルル8世が足指を6本持っていたからだ。 フランク・クーパーがインディアナ州の工場街の名前を芸名としたことで、 「Gary」という名前が始まった。 しかし、道徳の流行はもっと意図的に作られることが多い。 口に出せないことがある場合、たいていは、何らかの集団が、 人々にそれを口にして欲しくないと思っているからだ。
その集団が神経を尖らせていればいるほど、禁ずる圧力は強くなる。 ガリレイにとって皮肉だったのは、彼はコペルニクスの考えを繰り返しただけで 弾圧されたことだ。コペルニクス自身は弾圧されなかったのに。 実際、コペルニクスは大聖堂の参事会員であり、教皇に自身の本を献上してさえいる。 だがガリレイの時代には教会は反宗教改革の苦闘の最中にあり、 非伝統的な考えに対してずっと強く憂慮していた。
タブーをつくり出す集団は、弱さと権力の中間で危うく揺れている。 自信のある集団は、自分を守るためのタブーを必要としない。 アメリカ人やイギリス人をけなす発言をしても、不適切だとは思われないだろう。 一方で、集団はタブーを強制すに足る力を持っている必要がある。 この原稿を書いている時点では、汚物愛好者はその嗜好をライフスタイルとして 社会に受け入れさせる程の勢力はまだ無いようだ。
おそらく、道徳的なタブーの最大の源は、勢力のぶつかりあいにおいて 一方がかろうじて他方の上手を取っているだけ、といった場合なのではないかと思う。 そこには、タブーを強制するだけの力を持ち、かつそれを必要とするほど弱い、という 集団がある。
多くの紛争は、それが本来は何についてであったにせよ、 競合する思想間の争いへと変容してゆく。イギリスの宗教改革は、 底では富と権力を求める闘いであったが、結局はローマの破壊的影響から 英国人の魂を守るための闘いへと変容した。 人々を争わせるには、思想のためにしたほうが簡単だ。 そしてどちらが勝っても、勝った方の思想が勝者と共に勝利を誇る。 まるで神が、そちらを勝たせることによって その思想に合意することを示したとでもいわんばかりに。
我々はしばしば、第二次世界大戦は、全体主義に対する自由の勝利だと考えたがる。 その時には、ソビエト連邦も勝ち組に入っていたことは都合良く忘れているわけだ。
私は、思想に基づく争いが全く無いと言っているのではない。 ただ、どんな争いであれ、それが思想に基づくかどうかにかかわらず、 いずれそれは思想に関する争いであるかのようになってゆくということを 指摘しているのだ。 そして、廃れたばかりの流行がいちばん流行外れであるのと同じように、 うち負かされたばかりの思想は、最も間違ったものであるように受け取られる。 具象主義芸術は、ヒトラーとスターリンに気に入られたことから受けた痛手から、 いまようやく立ち直りつつある [8]。
道徳の流行は服装の流行とは違うところから発生するが、 それが社会に広まる機構にはさして違いがない。 まず、流行りものに敏感な層が野心からそれを取り込む。 自分で自分をクールだと思っている人々は、並の群集から自分を区別したいのだ。 流行が確立すると、第二の、ずっと大きな集団が、恐れからその流行に加わる [9]。 それらの人々は、目立ちたいからではなく、目立つのが恐いから 流行を採り入れるのだ。
したがって、口にできないことが何かを知りたければ、流行の仕組みを よく見て、それが何を口にできなくするかを予測しようとすることだ。 力を持ち神経を尖らせている集団はいるか。そしてその集団が抑え込みたい 考えというのは何か。ある集団が最近の争いに敗れ、それが支持していたがために 一緒に色褪せてしまった考えは何か。自意識的でクールにありたいと 思う人間が、自分を前の流行(例えば親の世代の流行など)から区別したいと 考えた時に、前の流行のどんな考えを拒否するだろうか。 そして普通の人々が口にすることを恐れることとはなんだろうか。
このテクニックは、口にできないこと全てを発見できるわけではない。 最近争いごとに巻き込まれていないのに口憚られること、というのも いくつか思い付く。我々のタブーの多くは、ずっと過去に深く根を下ろしている。 しかしこのアプローチを前に述べた4つと組み合わせれば、 ずいぶんたくさんの「考えることも憚られる考え」を見つけることができるだろう。
何でわざわざこんなことをしたがるのか、と疑問に思う人もいるだろう。 何だって、褒められない危険な考えをわざわざのぞいて回るんだい、と。 どうして石の下を覗くような真似をするんだい。
私がそれをするのは、まず第一には、子供の時に石の下を覗いたのと同じ 理由からだ。純粋な好奇心。そして特に、禁じられていることに対する 好奇心。とにかく見せてよ、それからそれをどうするか自分で考えるから。
第二の理由は、私は間違いであるような考えが好きでないからだ。 他の時代と同じように、将来ばかげたことだと思われるようなことを 我々が信じているのだとしたら、少なくとも私はそれを知って、 そういうのを信じることを避けたい。
第三に、それは頭脳にとって良いからだ。 良い仕事をするには、どこへでも行ける頭脳が必要だ。 とりわけ、本来行くべきでないようなところに行く習性を持っているような頭脳がね。
素晴らしい仕事は、他人が見過ごしていたようなアイディアから生まれることが多い。 そして、考えもできないようなアイディアほど、見過ごされているものは 無いじゃないか。例えば、自然淘汰を考えてみよう。とても単純だ。 だのになぜ、他の人は考え付かなかったんだろう。 それは、あまりに明白過ぎたからだ。 ダーウィン本人さえも、自身の理論が意味するところを注意深く爪先立ちで 避けて通っている。彼は自分の時間を、生物学を考えて過ごしたかったわけで、 彼のことを無神論者と弾劾する人々と議論したかったわけじゃない。
特に科学では、当然とみなされていることに疑問を持つ能力は 大きな利点となる。少なくとも良い科学者のmodus operandi(仕事手法)とは まさにそうだからからだ。一般的な知識が綻びるところを探し、 割け目をこじ開けて、その下にあるものを見る。 そこから新しい理論が生まれる。
良い科学者とは、別の言葉で言えば、一般的な知識を単に無視するだけではなく、 それを破るために特に努力するものだとも言える。科学者は、自ら困難を探すのだ。 これは全ての学者にとって必要な手法であるはずだが、 科学者は特に石の下を覗きたがる人種であるように思える [10]。
何故だろう? 単に、科学者は賢いからだろうか。 多くの物理学者は、必要とあらば、フランス文学の博士課程を終えることだってできる だろうが、フランス文学の教授で物理学の博士課程を 終えられる人はほとんどいないだろう。 それとも、科学においてはものごとの真偽がよりはっきりとしているため、 科学者は大胆になれるということだろうか。 (あるいは、ものごとの真偽がよりはっきりとしているため、 科学者としてやってゆくためには、単に良い政治家であること以上に、 賢いことが求められるとも言えるかもしれないが)。
理由は何であれ、知性と衝撃的なアイディアへの探求心との間には はっきりとした相関があるように思える。賢い人々は一般的な考えの 穴を探すことに熱心だというだけではない。そういう人々は、 常識にとらわれることが少ないともいえる。彼らの格好を見ればわかるだろう。
異端が利益をもたらすのは科学の分野だけではない。 競争的な領域ならどこでも、他の人が見る勇気を持たないところを見ることによって 大きく勝つことができる。 そしてどんな領域にも、ほとんどの人が恐れて口にしない 異端というものがあるんじゃないか。米国の自動車産業は、 マーケットシェアの減少に対してどう対応すべきか実に苦慮している。 だが、外側にいる注意深い人間なら誰でも、その原因はあまりに明白で、 ひとことで説明できるだろう。要するに品質が悪いんだ。 さらに、米国の自動車産業はそのような車を長く生産し続けてきたため、 米国の車のブランドはいまや反ブランドとなってしまった。 ○○の車だから買う、ではなく、○○の車だけど買う、というわけだ。 キャデラックが高級車の代名詞であったのは1970年ころまでだ。 でも、だれもそれを敢えて口にしようとはしない [11]。 でなければ、これらのメーカーはとっくに問題を解決しようとしているはずだ。
考えもできないようなことを考えようとすることは、それによって得られる考え 以上の効用がある。それはちょうどストレッチ運動みたいなものだ。 走る前によくストレッチしておけば、普通に走るよりもずっと違う体勢を 容易に取ることができるだろう。他人が聞いたら身の毛がよだつような あまりに常軌を逸したことを考えられるようになっていれば、 常識の箱のほんの外側を散歩するくらいわけもない。 そして人はそれを革新的だと言うだろう。
口にできないことを発見したら、それをどうしたらいい? 私のアドバイスは、それを口にしないことだ。 あるいは少なくとも、戦いを選んですることだ。
例えば、将来、黄色を禁じるような運動が起こったとしよう。 何かを黄色に塗ろうとしたり、黄色を好むそぶりをみせたりしたら、 「黄色主義者」というレッテルが張られるんだ。 オレンジ色を好む人は、一応許されるが、疑わしい目で見られる。 さて、そこであなたが、黄色には何も悪いところはないじゃないか、と 気づいたとする。それを言い触らして回ったら、たぶんあなたも黄色主義者と 呼ばれ、反黄色主義者との際限ない議論に巻き込まれるだろう。 もちろん、あなたの人生の目的が黄色の復権にあるのなら、 その闘いがあなたのやりたいことだろう。 でも、あなたのやりたいのがいろいろな問題を考えてみることだとすれば、 黄色主義者と呼ばれることは邪魔でしかない。 愚か者と議論する者は愚か者になるのだ。
最も重要なことは、考えたいことを考えられる、ということであって、 言いたいことを言える、ということではない。 考えたことを全部言わなくちゃならないと思っているなら、 それは不適切な考えを抱くことを却って邪魔してしまう。 逆の方針を取ったほうが良いだろう。 考えることと、話すことの間にはっきりとした線を引くんだ。 頭の中では、全て許される。 私は自分の頭の中では、思い付く限り最もとんでもない考えを押し進めるように している。でも、ちょうど秘密結社みたいに、その中で起きたことは外には漏らさない。 ファイトクラブの最初の規約は、ファイトクラブについて喋らない、ということだ。
ミルトンが1630年代にイタリアを訪ねた時、ベニスの大使であった ヘンリー・ウートン卿は、"i pensieri stretti & il viso sciolto." (閉じた考えと開いた顔)をモットーにすべし、と言った。 皆に微笑みかけ、しかし何を考えているかは口にしないこと。 これは賢明なアドバイスであった。ミルトンは議論好きな質だったし、 当時は異端審問が厳しかった。だが、ミルトンの置かれた状況と我々の状況の差は、 単に程度の差であるように私には思える。どの時代にも異端は存在し、 たとえそれで投獄されることはなくても、本来の仕事をすっかり邪魔される程の ごたごたには巻き込まれる。
黙っていろ、というのは臆病者に見えるかもしれない。 サイエントロジー信者が批判者に対して嫌がらせを行っているという記事や [12]、 イスラエルの人権侵害に反対する人々に関するファイルをイスラエル支持者が 作成しているという記事や [13]、 DMCA違反で人々が訴えられたりしていること [14]などを読むたびに、 私の中の一部は、「もう我慢ならねえ。ぶちかましてやろうぜ」と言いたがる。 問題は、口憚ることが多すぎることだ。 全部言ってしまったら、本来の仕事にかけられる時間など無くなってしまう。 ノーム・チョムスキーになるしかない [15]。
だが、考えを秘密にしておくことには、議論の利点を失ってしまうという問題がある。 アイディアは話すことで、もっと多くのアイディアを産み出してゆく。 従って一番良い方法は、できれば、少数の何でも話せる信頼できる友人を持っておく ことだ。これはアイディアを培う方法というだけでなく、 友人を選ぶ良い指針にもなる。とんでもないアイディアを聞いても 飛び上がらないような人こそ、知り合って面白い人達だからだ。
viso sciolto「開いた顔」、に関しては、 pensieri stretti「閉じた考え」程大事ではないんじゃないかと思う。 最良の選択は、その時に熱狂している人々には与しない、とはっきり言っておき、 しかしいったいどの点に同意しないかについてはぼかしておくことだろう。 熱狂した人々はあなたを議論に引っ張り込もうとするだろうが、 答える必要なんてないんだ。もしそういう人々が、彼らの言葉によって問題を 定義して「賛成か反対か」とあなたに迫ったなら、いつでも「どちらでもない」と 答えることができる。
もっと良いのは、「まだ決めていない」と答えることだ。 これはラリー・サマーズが、そういう立場に追い込まれそうになった時の答えだ。 後に彼はその時を振り返って、「私はリトマス試験は受けない」と説明した [16]。 人々が熱くなるような問題はたいてい、とても複雑なものだ。 即答できたからって何も良いことはない。
反黄色主義者があまりにあなたの手に余るようになり、 反撃しなければならなくなったとしても、 黄色主義者として弾劾されることを避けつつ戦う方法がある。 昔の軍隊の投槍兵のように、敵の本隊との直接対決を避け、 かわりに遠くから牽制するんだ。
ひとつの方法は、議論の抽象度を一段上げることだ。 一般的な検閲に関して議論すれば、 誰かが検閲したいと思っている本や映画に含まれている異端をもとに 攻撃されることを避けられる。 レッテル貼りには、メタレッテル貼りで対抗するんだ。 議論を避けるためのレッテル貼りそのものにレッテルを貼るわけだ。 「政治的に正しい」という用語が広まったのは、いわゆる政治的に正しい言い回しを 要求する風潮の終りの始まりであった。なぜなら、政治的に正しい言い回し なるものが本当に抑圧したい特定の異端に直接触れずに、 そのような風潮全体を批判することを可能にしたからだ。
もうひとつの反撃法は、メタファを使うことだ。 アーサー・ミラーは、セイラムの魔女裁判を描いた戯曲「るつぼ」を書くことで、 非米活動委員会(House Un-American Activities Committee, HUAC)を揶揄した。 もちろん、彼は直接に委員会を名指しして発言することは決してなかったから、 委員会もどうすることもできなかった。だってHUACはセイラムの魔女裁判を 弁護するわけにもいかなかったからね。 それでも、ミラーの比喩は実にうまくはまったので、こんにちでもHUACの活動は しばしば「魔女狩り」と呼ばれる。
最良の方法は、おそらく、ユーモアだ。 熱狂している人々は、原因のいかんにかかわらず、 総じてユーモアのセンスを欠いている。 ジョークに対して応える術を知らない。 ユーモアの領域では、まるで彼らはスケートリンクにつれてこられたフル装備の 騎士みたいなものだ。例えばビクトリア朝的な性的潔癖主義は、たぶんそれが ジョークとして扱われることでうち負かされたようだ。 それの一種の生まれ変わりである「政治的な正しさ」も同じだ。 アーサー・ミラーは後に書いている。 「『るつぼ』を書き通せたこと自体は嬉しく思っている。 でも振り返ってみると、ばかげた喜劇にすれば良かったと思うことが時々ある。 実際、ほんとうにばかげた時代だったよ」 [17]。
オランダ人の友人は、寛容な社会の例としてオランダを出すといい、と言ってくれた。 確かに、かの国は比較的心が広いことで長く知られている。 何世紀にもわたって、低地諸国は、他の国では言えないようなことを 言うために向かう場所であり、そのおかげでこの地域は学問と工業の中心であった (この関係は、人々が気づいているよりもずっと長期間に渡る)。 デカルトはフランス人であると言われるが、多くの思索をオランダで行った。
それでも私は思うのだ。オランダ人とて、日常生活では首まで規則と規制に浸かって 生きているんじゃないかと。かの地でも、 やったらまずいことというのは確かにたくさんある。 それなのに、口にしたらまずいことはないなんてことがあるだろうか。
心の広さを重視する、と言うことには何の保証もない。 だいたい、心が狭いことを自認する人なんているだろうか。 我々の仮説に登場した、郊外のお上品なお嬢さんだって、自分の心は広いと 思っているだろう。心を広く持ちなさいって教えられて育ったろうからね。 誰に聞いたって、同じように答えるだろう。心は広い、けれども、 本当に悪いこととの間には線を引いているがね、とね。 (「悪い」という言葉を審判的であるとして、もっと中立的に聞こえる、 「ネガティブ」とか「破壊的」というような言葉を使う人もいるかもしれないが)
数学が出来ない時、人々は自分でそれがわかる。テストの答えが間違っているからだ。 でも、心の広さに関しては、それがうまくなくても自分ではわからないんだ。 むしろ、逆に考えることさえ多い。 流行の本質は見えなくなることだってことを思い出して欲しい。 そうでないと流行にならないからだ。流行にがっちりととらわれた人にとっては、 流行は流行には思えない。ただ、それをすることが正しいことのように思えるだけだ。 距離を置いて眺めてみてはじめて、我々は人々が正しいと考えることの揺らぎを 見ることができ、それが流行であると識別できるのだ。
時間はそのような距離をただで与えてくれる。実際、新しい流行の到来によって、 古い流行は見ることが容易になる。対比してみればずっとばかげて見えるからね。 振り子の一方の端からは、他方の端ははるか遠くに見えるものだ。
しかし、今自分が生きている時代の流行を見極めるには、意識的な努力が必要だ。 距離を置いてくれる時間というものが無い以上、自分で距離をつくり出さなければならない。 群集の一部になるかわりに、なるべくそこから離れたところに立って、 皆が何をしているか眺めるんだ。そして、特に抑圧されているアイディアに注意を払う。 子供や従業員向けのWebフィルタは通常、ポルノや暴力、憎悪を煽る言説等を 遮断する。何がポルノや暴力とみなされているんだろう。 そして、何がいったい、憎悪を煽る言説とされるんだろう。 なんかまるで『1984年』の世界から抜け出してきたような言葉じゃないか。
このようなレッテルは、最も大きい、外的な手がかりだ。 もし主張が虚偽ならば、そもそもレッテル貼り自体は害にしかならない。 わざわざ主張を異端扱いする必要などないのだ。 そして主張が虚偽でないのならば、抑圧されるべきではない。 従って、ある主張がX-主義だとかY-的だとかいわれて攻撃されているとき (XとYは適当な値で置換せよ)、それが1630年であろうと2030年であろうと、 何かがおかしくなっていることの確かな兆候だ。 そのようなレッテル貼りを聞いたならば、なぜ、と問うてみるとよい。
特に自分がそういうレッテルを使った時だ。 距離を置いて見ることで学ぶべきものは、群集からだけではない。 自分自身の考えも、距離を置いて注意深く見る必要がある。 ところでこれは別に斬新なアイディアでもなんでもない。 そもそも、それが子供と大人の主要な違いだからだ。 子供が疲れているから怒っている時、子供自身はどうして怒っているのかわからない。 大人はそういう状況から一歩下がって自分を見て、「気にするな。疲れているだけなんだ」と 言うことができる。全く同じようにして、道徳の流行の影響を認識して回避することを 人が学べないということはあるまい。
明晰な思考をしたいのなら、その一歩を踏み出さなければならない。 それは簡単ではない。それは社会的な慣習に沿うプロセスではなく、むしろ反する プロセスだからだ。自分自身の機嫌が悪いことに影響されないようにするところまでは、 皆が教えてくれた。しかし、社会の機嫌が悪いことに影響されないようにするところまで やれと言ってくれる人はほとんどいない。
水の中にいる時に、どうやったら波を見ることができる? 常に問い続けることだ。それが唯一の防御だ。口にできないことは何だ。そして何故だ。
このエッセイの下書きを読んでくれたSarah Harlin, Trevor Blackwell, Jessica Livingston, Robert Morris, Eric Raymond, そしてBob van der Zwaanに感謝します。 また、Jackie McDonough、Ryan StanleyとJoel Raineyからは 異端に関して示唆をいただきました。 言うまでもないことですが、彼らはここに表明された意見と、そして特に 表明されなかった意見に関して、何ら責を負うべきものではありません。