(What You Can't Sayに関する註記)

[1] ガリレイの異端審問は、おそらく 拷問を脅迫手段以上に使うつもりは無かっただろう。だがそれは ガリレイが命令されたことは全て守るとはっきり言明したからだ。 もしガリレイが拒否していたとしたら、教会がそのまま引き下がったとは思えない。 そのしばらく前に、妥協を拒否した哲学者ジョルダノ・ブルーノは火あぶりにあっているのだ。

[2] 多くの組織では、御親切にもその中で口にしてはならないことのリストを発行している。 残念ながらそういうリストは、あまりに衝撃的でそれを口にする人がいると彼らが 考えもしないために載っていないものがあるという点で不完全であり、 同時にあまりに一般的すぎて文字通り強制することなど不可能という代物だ。 大学の言葉のエチケット規則で、 文字通り解釈してもシェークスピアを禁じることにならないようなものはまずない。

[3] Kundel HL, Nodine CF, Krupinski EA, "Searching for lung nodules: Visual dwell indicates locations of false-positive and false-negative decisions." Investigative Radiology, 24 (1989), 472-478.

[4] 「diffを取る」とはコンピュータ用語なんだが、ここで私が言いたいことを 正確に表すのはこの言葉しかなかった。この言葉は、ふたつのファイルの 差異を全てリストしてくれる、Unixのdiffプログラムから来ている。 より一般的な意味としては、同種のものの2つの実体をバイアス無しで詳細に比較するような 場合に使われる。

[5] こう言うと、私が道徳に対して一種の相対主義者なんじゃないかと思われるかもしれない。 実際はそれにはほど遠い。「審判的」というのは現代においてアイディアに関する議論を 封じ込めるのに使われるようになったレッテルのひとつだ。 我々が「非審判的」であろうと努力する様子は、未来の世界から見て 最高に滑稽に映るだろう。

[6] これは子供にとって世界をかえってわかりにくいものにしてしまう。 何故なら教えられたものと実体が一致しないからだ。 例えば、私はなんでポルトガル人達の「探検」がアフリカの海岸沿いから 開始されたのかがどうしてもわからなかった。事実は、彼らは奴隷を探していたのだ。

Bovill, Edward, The Golden Trade of the Moors, Oxford, 1963.

[7] 子供はいずれこういう言葉を友人から得てゆくが、 それを使ってはいけない、ということも知ってゆく。 従って、ある期間の間、家族は一種のミュージカルコメディみたいな 状況に置かれることになる。親は親や仲間とそういう言葉を使うが、 子供の前では決して使わない。一方、子供は子供同士でそういう言葉を使うが、 親の前では決して使わない。

[8] 数年前、私はベンチャー企業で働いていたが、そこの ロゴは 赤く塗りつぶした丸の真中に白いVがあるものだった。 私はこのロゴがとても気に入っていた。 しばらくそれを使っていてから、こう思ったことを覚えている。 これはとても強力なシンボルだよ、赤い丸っていうのは。 赤はもちろん最も基本的な色の一つだし、丸は最も基本的な形だ。 組み合わされれば、視覚的なインパクトは強烈だ。何でアメリカの企業はもっと ロゴに赤い丸を使わないんだろう…あ、 そうか

[9] この二つの力の間では、恐れの方がはるかに強い。 誰かが「gyp (訳注:詐欺師などを指す俗語)」という単語を使うのを聞いた時、私は時々、 まじめな顔をして、それはロマニー(ジプシー)を貶める言葉だから もう使っちゃいけないんだよと言ってみることがある。 辞書を見てみれば、語源的にはそんなことはないのだが、 このジョークを聞いた人はほとんどいつも、真に受けて ちょっとおびえたようなそぶりを見せる。 流行には、それが服装のでも考えのでも、人の自信を奪ってしまう何かがあるみたいだ。 新しいことを知ったら、人はそれを既に知っているべきであったと感じてしまうらしい。

[10] ここで、科学者の意見は常に正しいなんて言うつもりはない。 ただ、常識にとらわれないアイディアを考えようとすることで、 科学者は一歩先んじていると言いたいだけだ。 別の面では、科学者は不利な点も背負っている。他の学者と同様、 多くの科学者は生活の糧を直接稼ぐということは決してない。 つまり、自分自身が行ったサービスの対価を直接受け取るということがない。 多くの学者は、お金というものは仕事の対価ではなく委員会で分配されるものだ という、風変わりな小宇宙の中に生きており、 彼らにとって国家経済も同じように運営されていると考えるのは自然なのだ。 結果として、他の点では聡明な人々の多くが、20世紀半ばには社会主義者であった。

[11] 業界の中では、おそらくそういう考えは「ネガティブ」なものとされているんだろう。 「敗北主義者」と同様のレッテルだ。 そんなことは気にせずに、「それは真か偽か」と問うてみればいいんだ。 実際、組織の健全さは、ネガティブな考えがどのくらい許容されるかで 測られるとも言えるんじゃないか。偉大な仕事がなされる場所では、 人々はいつも批評的で皮肉屋であり、決して「前向き」で「支援的」であったりしない。 私が知っている、偉大な仕事をなした人は、自分はダメだが、 他のみんなはもっとダメだ、と考えている。

[12] Behar, Richard, "The Thriving Cult of Greed and Power," Time, 6 May 1991.

[13] Healy, Patrick, "Summers hits 'anti-Semitic' actions," Boston Globe, 20 September 2002.

[14] "Tinkerers' champion," The Economist, 20 June 2002.

[15] ここで意味しているのは、言いたいことを全部言ったら あなたはフルタイムで議論をしている人にならざるを得ないということであって、 ノーム・チョムスキーの意見が「口憚ること」だと言っているのではない。 チョムスキーの意見はリベラル派の主張にだいたい沿ったものだ。 もしあなたが口にできないことを実際に口にしたとしたら、 保守派もリベラルも同様に衝撃を受けることだろう。 あなたがビクトリア朝時代のイギリスにタイムマシンで旅行したとすれば、 あなたの考えはホイッグ党とトーリー党の両方とも驚かしただろう。

[16] Traub, James, "Harvard Radical," New York Times Magazine, 24 August 2003.

[17] Miller, Arthur, The Crucible in History and Other Essays, Methuen, 2000.


[Practical Scheme]